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インタビュー ~東日本大震災後の外国人に聞く~ <台湾>

名前:陳 素恵(チン ソケイ)台湾の台中市出身。

経歴:東京の日本語学校・大学を卒業。

その後,台湾で翻訳・通訳・日本語教師・日系企業に勤務。

現在は水戸市在住。

  

*いつ来日しましたか。きっかけは。

台湾では,1945年の終戦までの50年間,日本により統治された歴史的背景がありました。終戦まで日本語教育を受けた世代の人たちは皆,多少日本語が話せるし,私も子どもの頃から日本語を耳にし,日本の漫画やアニメを見て育ったので,日本は大変身近な国でした。

私は台湾の専門学校を卒業後, 日本の文化や日本語に興味があったので,日本語を勉強するために1988年に来日しました。東京で日本語学校に入り,その後,大学に入学しました。

*日本の印象はどうでしたか。

その頃の日本は経済が発展していて物価も高く,さすが先進国だなと思いました。交通機関はとても便利で,電車もバスも時間通りに来るので驚きました。台湾では,今でも市内の地下鉄やバスの時刻表というものがないので,感心しました。

*日本の大学生活で驚いたことはありましたか。

日本の大学生は,留学生と比べると,あまり勉強しないので驚きました。バイトをする人もいれば,授業をさぼり遊ぶ人もいました。でも,そんな学生も試験が近づくと一生懸命勉強していました。4年生になる頃には,就職活動のために,今まで茶髪だった髪を黒くしてリクルートに向けて変身するのです。その切り替えがすごいなと思いました。

それに,地方から来た女子学生は,上京して3ヶ月も経つとお化粧が上手になり,服装がだんだんおしゃれになっていくので,その変化にも驚きましたね(笑)。

*大学卒業後はどうしましたか。

台湾に戻って,翻訳や通訳・日本語教師をしました。日系企業で働いているときに,日本から技術提携で来ていた日本人男性と知り合い,彼と結婚することになりました。

*そうでしたか。それで日本に来ることになったのですね。

台湾で結婚して1年程してから,2008年9月に主人の転勤で横浜に引っ越しました。私は大学を卒業してからも日本のことが恋しくて,東京には時々遊びに来ていましたが,また日本に来ることになり嬉しかったですね。

それから一年後の2009年9月に,主人の転勤で水戸に来ることになりました。

*水戸の印象はどうですか。

私は水戸駅南口の近くに住んでいますが,図書館や駅ビルも家から近くて便利ですし,千波湖にも歩いて行けます。千波湖の景色は素晴しくて,散歩をすると気持ちがよいので,とても気に入っています。

*3月11日の東日本大震災のときの様子を聞かせてください。

あの日は,マンションの3階の自宅に1人でいましたが,今まで経験したことのない大きな揺れで,とても怖かったですね。部屋のテレビや棚が倒れるのを目の当たりにして,少し前にテレビで見たあのニュージーランドの地震のことが頭をよぎり,マンションが倒れたらどうしようと思って,携帯も何も持たずにあわてて外に避難しました。エレベーターは危ないと思い,スリッパをはいたまま階段で夢中で逃げました。階段も横揺れが激しかったです。

*それは怖かったですね。その後どうしましたか。

地震の後は,怖くてマンションに戻る人は誰もおらず,とにかく近くの避難所に行きました。避難所は千波小学校でしたが,何百人もの人が避難していたように思います。

今までテレビのニュースで,どこかの避難所の様子を見たことはありましたが,まさか自分が避難者になるとは思ってもいませんでした。

地震当日だから仕方がないのですが, 避難所では夜になっても毛布の配給もなく,その日は教室の床に寝ました。とても寒かったですね。

夜の10時にやっとクッキーが配られたのですが,私は胸がいっぱいで何ものどを通らない状態でした。でも,のどがカラカラでしたので,タンクに入った飲み物を皆で湯飲み茶碗にわけて,少しずつ飲みました。夜中にやっと届いた40枚の毛布は,お年寄りや子どもを優先に配布されたので,翌日マンションがどんな状態か不安に思いつつも,主人と一緒に毛布を取りに自宅に行きました。

*自宅に戻れず避難した方々は大変でしたね。どのくらい避難所にいましたか。

三日目には電気が使えるというので,主人とマンションに戻りました。結局避難所暮らしは二日間でしたが,二日目は,水城高校の側で暖をとっていた方から,高校の体育館も避難所になっていることを教えてもらい,そこに泊まることにしました。

体育館は天井も高いし,広くて空気もいいので少しほっとしました。そこでも物資の配給がありましたが,近くの市役所で行っている炊き出しに並べば,おにぎり・そば・バナナ・水など無料で手に入りましたので助かりました。

自宅に帰ってからは,主人と片付けをしましたが,余震や原発への不安で毎日落ち着きませんでした。

*台湾のご家族の心配はいかがでしたか。

11日の夜9時頃になって,やっと台湾の実家と連絡が取れ,私たちの無事を知らせて安心してもらいました。そのとき台湾のテレビでは,すでに福島や宮城の津波の様子などがニュースで流れていたので,本当に心配していました。逆に私たちは,テレビも見られなかったので「どんな被害になっているのか」分からなかったですね。

家族からは「原子力のことが心配なので,早く台湾に帰るように」と言われました。私はもともと台湾に行く用事もあったので,主人を残して行くことをためらいながらも,3月24日からしばらく台湾に帰国していました。

*震災後、日本のイメージは変わりましたか。

今回の地震について,テレビで避難所の様子がたくさん報道されましたが,あんなに辛い状況の中でも大きな声で泣き叫ぶこともなく,悲しくても静かに耐える日本人の姿を見て驚きました。物資が支給される時には,必ず並んで「ありがとうございます。」とお礼を言いますし,おにぎりなど一つしかもらえなくても,文句を言わないマナーの良さにも驚きました。

台湾でも1999年9月21日に中部で大地震がありました。私は台北にいたので,テレビで避難所の様子を見ましたが,物資が届いたときに,我先にと取り合っている避難者もいました。国民性もあるかと思いますが,日本人の冷静さと底力に感心しました。

*原子力発電に対して、どの様な意見をお持ちですか。

放射能については,未だに安定しませんし情報もはっきりしないので不安ですね。原子力の代わりになる発電など考えなくてはならないと思います。今回のことで,日本人の節電への意識が高まり,これからも続けられたら素晴しいと思います。

*陳さんの将来の夢を聞かせてください。

将来は主人と台湾に帰るようになると思いますが,日本に興味のある台湾の人たちに,

日本の言葉や文化を教えられたらと思っています。

二年前に水戸市国際交流協会の年末パーティーで司会を務めたのですが,着物を着せてもらったことがきっかけで,現在着付けを習っています。今後は三味線なども習ってみたいと考えています。

*素晴しい夢ですね。きっと叶えられると思います。今日はありがとうございました。

水戸市国際交流センターにて

 

☆(番外編)「台湾旅行の楽しみ方」を陳さんが教えてくれました。☆

*現地の人の「食」に対する情熱を肌で感じられる台北の夜(よ)市(いち)〔ナイトマーケット〕はお勧めです。「小吃(チャオチー)」とは,「おやつ・軽食のような・小皿で食べるもの」という意味ですが,その「小吃」の料理の種類は豊富で,手頃な値段ですしとても美味しいですよ。

*台湾の冬は意外に寒いので気を付けてください。エアコンは暖房機能がなくて,冷房のみなので,寒いときにはたくさん洋服を着るしかないのです。

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